水晶を見る意味
水晶球の中に見える世界とは
水晶球霊視は、私が実践している講座の中で最も人気が高くて、一般の方からプロの占い師さん、そして魔女術や儀式魔術に興味のある方まで、幅広く関心を抱かれる技術なのを実感しています。どんな方でも視覚に疾病がない限り、地道な努力を続ければ何かは見える、というのも魅力の一つだとは思います。しかし、何ヶ月も練習しても水晶球の中に見えてくるのは、ヴィジョン、つまりは幻影に過ぎません。それでも人を惹きつけてやまない理由はなんなのでしょうか。
いきなり水晶について話し出す、なんてこのブログでは珍しい状態だとは思います。実は今回、これまで開催してきた基礎編に加えて、練習を効率的に進めたり、見えてきたヴィジョンの判断をどうするか、といった講座も開催することになって、あらためて自分の水晶球を見つめていたのです。そこでふと「でも、これってどんなに頑張っても、別に真実の何か、が見えるわけではないんだよな」と思って、少し考えさせられてしまいました。
精神世界に興味のある人ならば、水晶球の中に画像が見える、という現象に憧れを抱くのは至極当然ではあるでしょう。でも実際にそれを経験しようとなると、何ヶ月も継続して練習しなければならないし、しかもそれで世界の神秘が解明する!なんていうわけでもなく、大抵の場合は「なんだこれ??」程度のヴィジョンが見えるだけです。そして正直な話、水晶球と向かい合うことでヒーリングになる、などということもありません。最初はただただ、眠いだけです。
でも、他の人のことをいくら考えてもわかるわけはありませんから、ちょっと落ち着いて深呼吸などしてから、どうして自分はこのスクライング、つまり霊視の練習を一生懸命していたのだろうか、と思い起こしてみました。当時は実際に水晶を占いに使いたいなどとは考えておらず、どちらかというと魔術師として自分の五感をコントロールするトレーニングの一環、と捉えていたように記憶しています。つまり、通常とは違った視界への挑戦、という感じですね。実際に魔術系の修行としてスクライングをする人たちも、見えたことで満足する、視界のコントロールができた!終わり!というタイプと、目の前に展開される新たな世界に魅了されていくタイプ、に大別できるような気がしています。
見えたら修行完了!
このタイプの人は、実際に何が見えたか、といったことにはほとんど固執しなくて、見えた、という体験をしたらそこで満足して次へ行く、という行動パターンが多いように思います。私自身も、最初はこのタイプだったのは間違いありません。でも、ヴィジョンが見えるようになってくると、それ以上の何かを感じるようになってきたのも、真実です。
ヴィジョンは大抵の場合、未来からのメッセージでも大宇宙の神秘でもなく、自分の潜在意識から出てくる断片的な「何か」でしょう。そこにあまり普遍的な意味を見出そうと悪戦苦闘するのも、ちょっと的外れに感じますし、悪い方向に行けば単なる自分の記憶を拡大解釈してしまって、自我のインフルエーションの罠にハマってしまうこともあり得るとは思います。でも、そうした危険を承知しながら一歩引いたところから観察してみると、一種、目覚めながら夢を見ていられるような状況なのだともわかってきました。
ヴィジョンが語ること
古今東西、夢見の解釈は重要な意味を持つものとして大切に扱われてきました。しかし、夢見の判断には一つ、大きな障害が横たわっています。当たり前と言えば当たり前なのですが、眠っているときに見るヴィジョンなので、目が覚めないと記録も解釈もできないこと、そして目が覚めた瞬間に夢を見ていたときとは大きく環境が変わってしまうので、正しく思い出すのがとても困難になる、ということでしょう。
でも、水晶球の中に見えるヴィジョンは、すぐに記録できますし、そんなに意識状態が激しく変動するわけでもないので、解釈に移行するのもスムーズです。ですので、自分の潜在意識の中を探ったり、夢見解釈を起床時のはっきりした意識で行うことも可能になってきます。そのような視点で見ると、本当に興味が尽きないテクニックだな、とも思えるようになってきました。
かといって、やはり霊視の世界に耽溺してしまうのは危険ですし、象徴の解釈にも一定の規律は必要です。そして、それさえきちんと守れば、そこには驚きに満ちた世界が待っています。そのための講座も、これからはどんどん開催していく予定です。みなさん、楽しみにしていてください。